人気ブログランキング | 話題のタグを見る

DAYS JAPANフォトジャーナリストスクールの卒業生達が自らの視点で世相を斬ります


by photopanda
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

大刀洗航空基地 空襲体験記 (バトン)

 …突然ですが、
 私は、九州の福岡県で生まれ育ちました。
 そして、私はこの街が大好きです。

 この福岡に、大正8年(1919年)に東洋一と呼ばれるほどの
大刀洗飛行場(西日本における陸軍の航空拠点)が完成しましたが、
昭和20年(1945年)までの26年間の末、空襲・敗戦とともに無くなりました。

 「自分の近くから平和をつくっていく」をテーマに、
まずは、自分の生まれ育った福岡で何があったのか?という事を
調べていくうちに、少しずつですが戦争当時の事を教えて頂く機会があり、
河野さん(現在80歳:男性)に、ご自身の戦争体験のお話を対話も交えながら、
訊かせていただきました。そして、その後、A4サイズの便箋約50枚に
『大刀洗航空基地 空襲体験記』という題名で、
ご自身の回想録をお書きになり、私に届けて下さいました。

 私は、河野さんからバトンを受け取ったように感じました。
近い将来、戦争体験をされた方がいなくなり、
また、「戦争を知らない人が戦争を知らない人へ伝えていく」という事を
担う時代になるのではないかと思います。
 幸運にも私は、戦争体験された方の生の声がきけるギリギリの世代です。
その生の声や表情を、なにか伝えていく事が出来るとすれば、
私は嬉しく思います。

 今回、河野さんから受け取ったバトンを私達のブログに書き込みさせて頂きます。
どうぞ、よろしくお願いいたします。


『大刀洗航空基地 空襲体験記』 

 昭和20年3月より8月まで

大刀洗陸軍航空廠技能者養成所

一中隊一区隊九室 河野(満十五歳)

(序文)
 1945年8月15日、戦争は敗戦という形で終わった。
国土は焦土となり、数多くの犠牲者を出した。
大義名分を称える人もいるが、結果として多くの国々人民に多大な迷惑をかけた。
彼我の喪失した人材は膨大な数に上り、優に一千万人を超えるであろう。

 何故、戦争をしたのか。愚かとしかいいようがない。
嚆矢は西洋烈強の驕慢と強欲だが、我が国もそれに引きずられ、理性を欠き、
多くの国民も日清・日露の戦勝気分醒めやらず、一部強硬な軍人に牛耳られ、
マスメディアに同調し、意識、無識に関わり無く、
目に見えない大きな戦争へのうねりを作ってしまった。
 それが、この結果であり、予測できた知識人達は苛酷な言論統制令の許、
口を開く事の出来ない世の中になっていた。

 世界は現代でも争いは絶えない。
火種は民族、宗教宗派・専制・覇権・領土・資源等、多くの問題を抱えている。
 幸いな事に大国が平和志向を目指し始めた。多くの国々も足並みを揃え、
対話による解決へと協力をす可きだ。
 若しこの世から戦争が無くなったら膨大な資金が浮く筈だ。
「そんな夢みたいな……出来もしない事喋るな!」と言われる。そうだろうか?
いまだに力の論理を信奉する人が数多くいるのも事実だ。
地上の富を分け合おうともせず、自己中心的な考えを持った国、
或いはそういう人も多くいます。差別を尚ぶ驕慢な人もいる。

 然し、多くの人々、世界中の人々が、
その気になれば平和への小さなさざ波が波となり、うねりとなって…
共存共栄の世の中も夢ではないと私は考えます。

 戦後、64年、想い起せば、僅か1年半、軍属として。
大刀洗での生活、苦しかった事、楽しかった事、死と向き合って生きた事など、
懐旧の念断ち難く走馬灯のように想い出されます。
ましてあの苛酷な空襲体験は、まるで、入れ墨のように心に深く鮮明に刻まれ、
生涯忘れることは、ありません。

 隔世という言葉があります。
御存知のように「世をへだてる」ということですが、
戦争のことが仲々、子や孫に伝わらない、伝わっていない。
時には驚くと言うか、啞然とする事があります。
 10年程前、熊ヶ山の慰霊祭の日、会場から1km程、離れたところで、
30代とおほしき地元の御婦人に場所を尋ねると「知りません」と言われた。
それで「戦争中大刀洗飛行場が爆撃されて、戦死された人々を祭ってあるところです」
というと、大刀洗が空襲を受けた事すら御存知なかったのです。
世の中半世紀も経過すると、戦争の悲惨さや酷たらしさ、無辜な人々への殺戮。
どれ程の人が、子や孫、父母、兄弟、親族をなくし慟哭した事か。

 いつしか、記憶はうすれ、忘れられてゆく。
「苦しみからの解放」も切実なもの、ではあるけれども
戦争は破壊と殺戮と悲しみと怨念の坩堝である。
肝に銘じ、その事だけは忘れずに、戦争のない世の中にしなければならない。

 私は一昨年の年賀状に、極く簡単な大刀洗空襲の模様を書いた。
うら若い女性であり乍ら殊勝にも戦争体験者から広く体験談を訊き集め、
後世に伝えてゆきたい、という人がいてインタビューを申し込まれた。
 私に出来る事なら、と快諾したものの訥弁な私のこと。
筋道を立てて話すことの難しさを知った。後日文書にして届けた。
何度も読み返せば、状況描写が、自分の心情に添っていない。説明不足。
補足を要するところ。その他至らないところ等が多々目につくので推敲を重ね、
やっと此の回想録を書き上げた訳です。
 何しろ浅学非才、御指摘もあろうかと思いますが
寛大な眼差しで御笑読下さいますよう

平成21年9月

参考文として「桑原氏」の著書より、次の一文を転載させて戴きました。

桑原三郎著「大刀洗飛行場物語り」
五十頁 第二話六行目より十二行

 『私達の作業は、先づ大刀洗爆撃の体験者の聞き込みから始めた。
 戦前から飛行場の近くに住み、今は老人の域に達した人々。
 飛行場を中心とする、様々な軍事施設で働いた工員・動員学徒・挺身隊員・
 軍属・軍人等を訪ねた。しかし残念にもその人々の古い記憶は
 余りにも風化し教材には耐えられないものであった。
 「爆撃」という死と隣合せの極限状態の中で、冷静にB29の群を
 見上げる自身が不可能である。 
  そのことは私自身が東京で、B29の至近弾を受けた時、地上のことは
 よく覚えているが、上空の状況は殆んど記憶にないのと同様、
 期待するのがもともと、無理な注文であると悟った』

 私は桑原さんの文を読んで勇気が湧いた。
「爆撃という死と隣合せの極限状態の中で、冷静にB29の群を見上げ」
尚且つ爆撃の恐怖を入れ墨のように消えない記憶として、
生涯忘れずに抱き続けている、数少ない人間であることを自覚した。
 そうであるならば、その体験を多くの人に披瀝す可きではないのか。

 あまり文章を書くのが得意ではないが、勇気を出して書くことにした。
 
                           つづく
〜追伸〜
長文になりますので、
続きは何回かに分けて書き込みさせて頂きます。
どうぞ、よろしくお願いいたします。
読んで下さり「ありがとうございます」
 
マッコ
大刀洗航空基地 空襲体験記 (バトン)_a0144335_1434717.jpg

by photopanda | 2010-03-12 14:10 | 戦争体験談